【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

「なんで怒ってるの?私のせい?」(W レッスン161)

コースの表現では、分離による「罪悪」、「怒り」、「不平不満」という言葉で表されていると思いますが、

私のこれまでの人生においては「不機嫌さ」という表現がしっくりきます。

 

外側の世界に見ていた「不機嫌」さ。

幼いころはつねに不機嫌な母や祖父のご機嫌を取るのに必死で、

学校では担任の先生の不機嫌さにいつもおどおどし、

昨日は普通だったのに急に不機嫌になる友達や彼氏に振り回され、

不機嫌な上司や同僚が嫌で、結局職場を辞め、

不機嫌な夫とよく衝突し、

いろんなコミュニティーでは不機嫌そうな人が気になってしまい居心地悪くなり、

不機嫌なお客様をどうしたら癒せるのかと迷宮入りし・・・。

 

「なんで不機嫌なの?何に怒ってるの?私のせい?私のどこが悪いの?何を直せばいいの?」

「私のせいだ!」

「私は嫌われる」

「私は愛されない」

「私も愛せない」

「愛し方がわからないし、愛がわからない」

 

そして、機嫌を取ったり、「良かれと思って」対処すればするほど、裏目に出ました。

 

そのうち行動することはやめたけど、心の中では「不機嫌さ」を裁いていました。

 

・・・

気づいたら、いつも誰かが「不機嫌」。

「きっと私のせいだ、私の存在が機嫌を損ねさせる」とすぐ思う。

「不機嫌」な人がほおっておけない。

そわそわしてしまい、機嫌を取ったり、救わなきゃ、と思ってしまう。

だいたいは「不機嫌さ」に耐えられずに、逃げ出し、関係が続かない・・・。

 

けど、子供から「お母さんって、鼻歌歌っている時以外は、不機嫌な時だね!」と言われ、ハッとした。

「私は、あんなに嫌な不機嫌な状態を、今度は子どもにしていた・・・最低だ」

 

・・・・・

「コース」の教えが深まって「投影」の原理が腑に落ちて氣づいたのは、

「本当は私が一番”不機嫌”だっだんだ」

「不機嫌さ(怒りと恐怖)を抑圧していたんだ」

「分離を信じ、不機嫌さという狂気を見ていたんだ」

 

そして外向きには、

私は「不機嫌」な人を心の中で強く攻撃している!ということ。

「不機嫌」な人をゆるせない。

「不機嫌」な人を説得して機嫌を直してほしいと強く思っている。

という風に捏造していたのです。

 

・・・・・

「不機嫌」

ピンポイントでこの表現にたどり着いて本当に良かったです!

「コース」の述べる”罪悪””怒り”(恐怖)や”不平不満”は抽象的で、広範囲過ぎますので、私的な部分のひだまで届いていませんでした。(ざっくりわかるけど、理解が弱かった)

 

これまでの、私個人という罪悪人生ストーリーは見事に「”不機嫌”にまつわるエトセトラ」だったのでした。

 

・・・・・

「コース」に感謝しています。

「コース」を通じて導いてくださった兄弟に感謝しています。

 

もう「外側」の不機嫌さに対処しません。

「外側」を取り繕うために頑張ったり、気を使ったり、人を責めたり、自分を責めたりする必要はありませんでした。

誰かの「不機嫌さ」やそれにまつわる大小の出来事、それがとても深刻そうなものでも、極力、もう具体的な対処はしません。

行動や言葉の対処はしません。

 

母の機嫌、友達の機嫌、夫の機嫌、親戚の機嫌、他者の機嫌・・・、そこからそっと離れて、まず静かになります。

 

じっとします。

そして、ただ自分の「不機嫌さ」の奥にある身体感覚の緊張やこわばり、力みを、全部感じて、解放して、聖霊に明け渡します。

 

私の分離の罪の象徴として現れた「不機嫌さ」のストーリーを全部見つめて、感じて、聖霊に渡します。

 

・・・・・

そうしているうちに、「不機嫌さ」の影に覆われて混乱して見てこなかった「神の子」の私とつながりました。

本当にしっとりと潤いと平安と愛に満ちた感覚が広がります。

神の国以外はもう何もいらない」と満たされます。

 

そして、副産物として、「外側」の世界にもいろんなほっこりする嬉しい変化があらわれます。

 

・・・・・・

ワークブック

レッスン161

 

聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。

 

ひとりの兄弟はすべての兄弟である。

どの心もすべての心を含んでいる。

どの心も一なるものだからである。

これが真理である。

しかしこのような考えが、創造の意味を明らかにするだろうか。

あなたはこのような言葉によって、完全に明瞭な理解を得られるだろうか。

それはただ空ろに響く音としか思えないはずである。

聞こえはよく、感覚的には正しく感じられても、根本的には理解されず、理解不可能なのではないだろうか。

具体的な考え方をするように自らに教えた心が、もはや、すべてを包含するという意味の抽象性というものを把握できない。

だから私たちは多くを学ぶために、わずかなものを見ていく必要がある。

(4:1~8)

 

恐れは貪欲で、目にするものをことごとく食い尽くす。

あらゆるものの中に自分自身を見るので、自分自身に襲いかかって、破壊したくなるからである。

(7:5)

 

兄弟を肉体と見なす者は、兄弟を恐れの象徴として見ている。

そして彼は攻撃する。

なぜなら、彼が見ているのは自分自身の恐れであり、それが自分の外側にあって、攻撃の構えをとり、再び自分とひとつになろうとして叫んでいる様だからである。

投影された恐れが次から次へと引き起こす怒りの激しさを見誤ってはならない。

それは猛り狂って金切り声を上げ、自分を作り出した者に飛びかかり食い殺したいと思うあまり、狂ったように空中に爪を立てる。

(8:1~4)

 

このようなものを、肉体の目は兄弟の中に見ているが、その人は、天国がいとおしみ、天使が愛し、神が完璧に創造した者である。

それが彼の実相である。

(9:1.2)

 

しかし彼をそのように見る視覚の中では、あなたも彼と同じ麗しき者であるから、あなたはひざまずくかわりに彼の手をとる。

(9:4)

 

ひとりの兄弟を、ほかの兄弟たちの象徴として選び、その人に向かって救済を求めなさい。

まず、できる限りはっきりと、あなたが見慣れている姿でその人を思い描く。

その人の顔や手足、服装を見る。

その人が微笑むのを見つめ、その人のいつものしぐさを眺める。

その後、次のように考える。

あなたが今見ているものは、あなたの罪をすべて赦せる人の姿をあなたから隠している。

その人の神聖な手が、あなたの手に打ち込まれた釘を抜き取り、あなたの血まみれの額から、あなた自身がかぶせたいいばらの冠を外すことができる、と。

その人があなたを自由にしてくれうように、次のように頼みなさい。

 

聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。

私はあなたをキリストのまなざしを見て、あなたの中に私自身の完璧な無罪性を見たいです。

 

そうすれば、あなたが呼びかけた相手であるキリストが答えてくれるだろう。

キリストはあなたの中の神を代弁する声を聞き、あなた自身の声で答えるからである。

あなたが今まで単なる肉と骨の塊だとみていた兄弟を、今、よく見てみなさい。

そして、キリストがあなたのもとにきたことを認識しなさい。

今日の主題概念はあなたにとって、怒りや恐れからの安全な脱出法である。

兄弟を攻撃しそうになったり、彼の中に自分の怖れの象徴を知覚してしまいそうになったら、必ず、ただちにこの概念を使うようにしよう。

そうすればあなたは、彼が瞬く間に敵から救済者へ、悪魔からキリストへと変容するのを見るだろう。

(12:1~6)

・・・・・

 

小さい頃からこの世界に絶望しあきらめていた。

 

なるべくショックが少なくて済むように、

 

見ないふりしたり感じないふりしたり避けたりしてきて、

 

誤魔化しだらけ嘘だらけの日々だったので、

 

心理の勉強しはじめても、

 

もともと感じていた真理に対しても、

 

正直に感じることを避けてきた。

 

やはり周りとのズレが恐ろしかった。

 

誤魔化しも嘘も私の中では自動反応と化していたので、

 

もうナチュラルに誤魔化しと嘘まみれ。

 

この部分は本当に意識して関わる必要がある!ということに氣づいた。

 

 

この世界が幻であることにはもうもうずーーーと昔に氣づいていた。

 

頭ではなく、心の奥底で。

 

誤魔化す事なんかできないし不可能なことでした。

 

この世界に反応できない、と感じていた。

 

ただ反応しないとこの世界とつながれない、、、、、そんな風に間違った解釈をしていた。

 

コースに出会い、

 

この”物質世界”に反応できない!という理由をハッキリと確認できて、

 

やっと心を本当の場所に戻すことが出来ていってる。

 

完全な抽象性が、心の自然な状態である。

(2:1)

 

自然のままでいいということ。

 

生命という真の意味。

 

怖れをそっと脇におき、

 

このまま祝福の中にいます。

 

何ものであるかの自覚(W レッスン160)

「恐怖」で動く。

例えば、

「死なないように」

「食べていかないといけないから」

「何もしないって無価値だと思うから」

「認められないと存在してはいけない」

「〇〇がないと、無能だから」

無数にある「恐怖」から波及した信念。

 

この「恐怖」で動いている間は、私は私を生きていない。

私ではない「異邦人」、あるいは「亡霊」だ。

 

「恐怖」の支配下のもと、亡霊となっていた。

 

「恐怖」は幻ゆえに、「恐怖」の支配下の間は私たちも幻。

 

真に生きるとは、「神の子」「実相」を生きること。

 

それは高尚なことでも、難解なことでも、敷居の高いことでもなんでもない。

 

「恐怖」を見抜くだけだ。

「恐怖」の見抜き方は、「恐怖」を思った時の身体感覚を全部感じ切ることだ。

そして聖霊に渡してしまうことだ。

 

それこそ、長年、「恐怖」をもとに生きてきたので、この感情感覚を感じ切っていく状態はしばらくは続く。

そう簡単に消えない。

 

だけど、感じ切った分だけ、「恐怖」は過ぎ去っていく。

どんどん「恐怖」の正体が暴かれていく。

そして「恐怖」の力はなくなり、透明になっていく。

 

その透明な先に、「神の子」「実相」が笑って待っていてくれている。

・・・・・

ワークブック

レッスン160

 

私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。

 

もしあなたが実在するなら、恐れは幻想に違いない。

そしてもし恐れが実在するなら、あなたはまったく存在しないということになる。

(4:7.8)

 

彼は道に迷っている。

しかし今、奇跡が彼を探し出して、彼は異邦人などではないと教えるだろう。

その奇跡は訪れる。

彼の家には、彼の真の自己が今もとどまっているからである。

自己は異邦人を家の中に招き入れたことはなく、異質な想念を自分自身と取り違えることもしなかった。

そして自己は自分に属するものを認識して、それを自分自身へと呼び戻すだろう。

(6:4~8)

 

神が合一させたものは永遠にひとつであり続け、神の家でくつろいでおり、神ご自身にとって異邦人ではない。

(8:5)

 

彼らはキリストを異邦人と見なしているが、それは彼らが自分自身を認識していないからである。

しかしキリストを歓迎するとき、彼らは思い出す。

そしてキリストは彼らを再び、彼らの家へと優しく連れ帰る。

(9:3~5)

 

キリストは誰も忘れてはいない。

あなたが思い出すべき相手をひとり残らず、キリストがあなたに与えてくれる。

それによって、あなたの家はそれが建てられたときと同じように、完全で完璧なものとなるだろう。

キリストはあなたを忘れてはいない。

しかしあなたは、キリストが見ている通りにすべての者と見るようになるまでは、キリストを思い出すことはないだろう。

自分の兄弟を拒む者は、キリストを拒んでいる。

そうすることで、視覚の贈り物を受け入れるのを拒否している。

だがその視覚こそが、自分の真の自己をはっきりと認識し、わが家を思い出し、救済が訪れるための手段である。

(10:1~5)

 

すでに癒されているという前提(W レッスン159)

キリストの心眼にゆだねれば、この世界はすでに癒されている。

 

この心眼を取り戻したいです。

 

私は退きます。

 

退くこと、訂正すること、静かにしていること。

 

そうして、真の心眼を迎えることができますように。

 

正気の心を取り戻せますように。

・・・・・

ワークブック

レッスン159

 

私は自分が受け取った奇跡を与える。

 

・・・・・

誰も自分が受け取っていないものを与えることはできない。

何かを与えるためには、まずそれを自分のものをして所有していなければならない。

この点では、天国の法則と世界の法則は一致している。

しかし、両者が分岐するのもここである。

この世界では、何かを所有するにはそれを持ち続けなければならないと信じられている。

救済はそれとは違ったことを教える。

与えることは、自分がすでに受け取っていることを認識する方法である。

それは、自分がもっているものが確かに自分のものだと示す証拠である。

(1:1~8)

 

あなたは癒しを与えるとき、自分が癒されていることを理解する。

赦すとき、自分自身の中で成就したものとして赦しを受け入れる。

自分の兄弟を自分自身として認識するとき、自分が全一であることを知覚する。

あなたが与えることのできない奇跡は一つもない。

あなたにはすべての奇跡が与えられているからである。

今、奇跡が置かれているあなたの心の倉庫を開き、それらを与え放つことにより、今、それを受け取りなさい。

(2:1~5)

 

キリストの心眼そのものが一つの奇跡である。

それは、それ自体をはるかに超えたものからやってくる。

それは永遠の愛を反映し、覆い隠されてはきたが決して滅びぬ愛の再生を、反映している。

(3:1~2)

 

それは与える者と受け取る者をひとつに結びつけている絆であり、彼らは天においてひとつであるのと同じように、地においても延長の中でひとつである。

キリストは誰の中にもいかなる罪も見ない。

そしてキリストの視覚には、罪なき者たちはひとつのものと映る。

彼らの聖性は、キリストの父とキリスト自身から与えられたものである。

(4:3~6)

 

キリストの心眼は二つの世界の間の架け橋である。

そしてあなたは、この世界から、赦しによって神聖になった世界へと自分を運んでくれるものとして、安心してその力を頼みとすることができる。

ここでは非常に堅固に見えるものが、向こうの世界では単なる影にすぎない。

それらはときには忘れられてしまうほどに透けていて、かすかにしか見えない影であり、その向こうで輝いている光を決して覆い隠すことはできない。

心眼には聖性が回復されており、盲いた者も見えるようになる。

(5:1~4)

 

これが聖霊の単一の贈り物である。

あなたの幸福に役立つあらゆるものを、完璧な確信を抱いてこの宝庫に求めることができる。

すべてのものはすでにここに納められている。

求めさえすれば、すべてを受け取ることができる。

ここでは、扉に鍵がかけられるようなことはなく、誰ひとりとして、どんな些細な願い事についても、どんな緊急な必要についても拒まれることはない。

キリストのこの黄金の宝庫の中ですでに癒されていない病気はなく、満たされていない欠乏や必要もない。

(6:1~6)

 

ここで、この世界が作り出されたときに失われたものを思い出す。

ここでそれが修復され、これまでとは異なる光の中で新しく作り変えられるからである。

罪の住処となるところだったものが、贖いの中心となり、慈悲の場となり、苦しんでいた者たちがそこで歓迎され癒される。

(7:1~3)

 

あなたが与えることができるように蓄えられている奇跡を見なさい。

それは神があなたに与えると約束した贈り物である。

その贈り物に、あなたはふさわしくないだろうか。

神の子を裁いてはならない。

それよりも、神が定めた道を進みなさい。

キリストは赦された世界の夢を夢見た。

それがキリストの贈り物であり、それにより死が生へ、絶望が希望へと快く推移していく。

一瞬の間、キリストと一緒に夢を見よう。

キリストの夢は私たちを真理に目覚めさせてくれる。

キリストの心眼が、神の中で今も失われてない永遠の聖域へと戻っていく手段を、私たちに与えてくれる。

(10:1~8)

 

 

(W レッスン158)

この世界に前のめりになって参加しなければならないと思い込んでいて、この世界で目に付く善悪や損得や優劣に翻弄されていたけど、

 

私たちは「心」だった。

 

私は神に創られ、祝福されている。

ということは、全世界のすべての人も同じ。

 

それ以外の部分を見る必要がない。

 

それでも、肉体の眼は「差異」を見つけては裁こうとするが、

今はそれを全部、「訂正」へと持っていく。

 

私たちは神の子。

誰一人、肉体ではない。

 

この真実をゆるがすものはない。

 

そう思って世界を見渡すと、世界は優しいパレットになる。

・・・・・

ワークブック

レッスン158

 

今日、私は自分が受け取った通りに与えることを学ぶ。

 

・・・・・

あなたに与えられているものとは何だろうか。

それはあなたが心であるという智識である。

あなたは神の心の中にあり、ただ純粋に心として存在しており、愛によって創造されたので永遠に罪はなく、まったく怖れを知らない。そしてまた、あなたは自分の源を去ったことはなく、今も創造されたままにあり続けている。

これが、絶対に失いようのない智識として、あなたに与えられている。

それはまた、生きとし生ける一切ものもに与えられている。

この智識のみによって、生命あるものは生きているからである。

(1:1~5)

 

私たちはすでに終わっている旅に出るにすぎない。それでも、私たちには未知の未来があるように思える。

(3:6.7)

 

しかし現象の背後には、変わることのない一つの計画がある。

その台本もすでに書かれている

あなたの疑いを終わらせる体験が訪れる時も定められている。

私たちは旅の終わった時点からふりかえって、その旅を見ているだけであり、もう一度自分たちがその旅をしていると想像し、過ぎ去ったことを心の中で反芻している。

(4:2~5)

 

そこにおいて、疑念と影の世界が、形なきものとつながる。

ここに、世界の中にありながら、赦しと愛によって神聖になった静かな場所がある。

すべての対立はここで和解する。

ここでその旅が終わるからである。

(6:1~3)

 

キリストの心眼には一つの法則がある。

それは、肉体を見てもそれを神が創造した神の子と見間違うことはない。

それが見るのは、肉体を越えた光であり、触れることのできる有形のものを越えた一つの想念である。

(7:1~3)

 

これは教わることができるものであり、

それを達成したい者は誰でも、それを教えなければならない。

そのために必要なのは、この世界はわずかでもこれに匹敵するような価値のあるものを与えることはできないと認識することであり、この世界が掲げる目標はすべて、これが知覚されたときにはただ消えてしまうようなものばかりだと認識することである。

そして、今日あなたが与えるものとは、誰のことも肉体としては見ない、ということである。

誰のことも神の子と認めて挨拶し、聖性の中で彼は自分とひとつであると認めなさい。

(8:1~4)

 

こうしてその人は自分の罪を赦される。

キリストにはすべての罪を看過する力のある心眼があるからである。

(9:1)

 

自分の兄弟の中に見るものは自分自身にほかならないということを覚えてさえいれば、このレッスンを習得するのは難しくない。

(10:3)

 

啓示がいつ訪れるかは問題ではない。

それは時間に属さないものである。

(11:1)

(W レッスン157)

何日か前から、寝て見る「夢」と現実という「夢」は同じだし、寝て見る「夢」も訂正が可能だと氣づいてから、寝て見る「夢」も訂正の対象にしている。

 

寝て見る「夢」では、いつも何か”取り繕っている”。

失敗を取り繕ったり、罪から免れようとしたり、何かを誤魔化したり、恐ろしい状況から自分だけ逃げてしまおうとしたりと、なんというか、セコイ感じだ。

 

この夢を簡単に分析してみると、「私って罪深くて卑怯だ」となる。

そして、そんな卑小な自分を隠すために、逆の「良い人間」を目標にかかげ、世界に投影し、世界を卑小なものにし、自分を「良い人間」に仕立てるために、叱咤激励する。

 

寝て見る「夢」も、起きて見ている「夢」も、同じことを捏造していて、寝て見る「夢」はより無防備だからこそ、抑圧している感覚が表出しているんだと思う。

 

なので、起床した後、しばらくはベッドの中で「訂正」をする。

夢で感じた感覚を逃さないようにして、それを聖霊に差し出す。

隠したくなる感覚や責めたくなる感覚を全部打ち明ける。

 

そして、「心」へと戻る意欲もお願いする。

 

そうすると、「何にもいらない」というような満ちた感覚が湧いてくる。

 

私たちは自分が思っていたようなものではなかった。

「心」だった。

どんな言葉が大事とか、行動で得るものとか、一過性に過ぎない何ものにも囚われる必要などなかった。

 

寝て見る「夢」で、罪悪を隠すための取り繕いは、現実世界での防衛の反応と等しい。

その瞬間に気づいて、その感覚を聖霊に渡しながら、「心」に戻る。

 

私たちは常に「心」だった。

 

この、「心」であるというハッキリとした自覚だけが必要だった。

 

この「心」は「光」「愛」に由来している。

 

「光」「愛」を反映している。

 

「頭(自我)」は唯一、「心」を「光」「愛」にチューニングする意志を持つときだけに使う。

 

この世界にいる唯一にして究極の目的は常にチューニングを怠らないことだけ。

 

「神と神の国を守るためだけに警戒していなさい」ということなのだ。

 

・・・・・

ワークブック

レッスン157

 

今、私はキリストの隣在の中へ入っていく。

 

・・・・・

今日は沈黙と信頼の日である。

それは、あなたの暦の上で特別な約束の時である。

天国は、この日を選んでその上に輝き、永遠のこだまが聞こえる今日という日に、時間を超越した光を投げかけている。

今日という日は神聖である。

これまでとは異なる種類の気持ちと自覚という新しい体験を招き入れるからである。

あなたはこれまで、昼も夜も、死を祝うことを長々と時間をかけてきた。

今日、あなたは生命の喜びを感じることを学ぶ。

(1:1~6)

 

今、私たちは新しい次元を加える。

それは、すでに学んできたことのすべてに光を投げかけ、まだ学んでいないことのために準備を整える新しい体験である。

(2:1.2)

 

今日から、あなたの司牧の職務は真の献身となって熱意を帯び、それがあなたの指先が触れる人々へ伝わり、あなたが見る人々を祝福する。

心眼は、あなたが出会う誰にでも届き、あなたが思い浮かべる人やあなたを思う人の一人ひとりにも届く。

今日のあなたの体験はあまりに心を変容させるので、それが、「神聖な神の想念」というものを識別するための目安となるからである。

(5:1~3)

 

あなたの肉体は今日、聖別される。

今やその唯一の目的は、世界を照らすために、この日にあなたが体験するものを見る心眼を運んでいくことだけとなる。

このような体験は、私たちが直接与えることができるものではない。

だが、その体験は私たちの目に心眼を残し、それを私たちは誰にでも差し出すことができる。

それにより、世界が静かに忘れ去られて、しばしの間、天国を思い出すという同じ経験に、誰もがいっそう早くたどり着けるようになる。

(6:1~3)

 

私たちは今、キリストの臨在の中に入っていく。

キリストの輝く笑顔と完璧な愛以外に何も意識せず穏やかに。

キリストの顔を見る心眼はあなたとともにとどまるだろう。

しかしこの最も神聖な心眼さえも超越してしまう一瞬がある。

それはあなたが学んで得たものではないから、あなたがそれを教えることはない。

しかしその心眼は、あなたがその瞬間に知ったこと、そして必ず再び知るだろうことについてのあなたの記憶を物語るものである。

(9:1~4)

一日百回でも千回でもたっぷり癒される(W レッスン156)

神とのひととき。

聖霊とのひととき。

エスとのひととき。

私とのひととき。

夫とのひととき。

遠くのあの人とのひととき。

 

全部がひとつ。

「光」の中。

 

これ以上何を求める必要があるのだろう。

 

ひとつになるとこんなにも安らかなのに、何を怖がっていたんだろう。

 

浮上してくる過去や、これからも出会う動揺や反応も、身体の痛みや不調も、世界の情報も、百回でも千回でも、聖霊に差し出し訂正しよう。

 

「光」でひとつになって休らおう。


心を光に浸そう。

 

・・・

これまで、長い間携わってきた「セラピー」は、自我の処理でしかなかった。

自我は手柄が欲しかった。

そうして自我は自我でいたかった。

処理したつもりで横にどかしただけだった。

それでも、闇を見るところまではやってきたのだから、あとは、全部、聖霊に差し出すためにただ静かに感じ尽そう。

 

そうして、聖霊、キリスト、神に抱かれ、ほかほかぬくぬく甘えて、休らおう。

・・・・・

ワークブック

レッスン156

 

私は完璧な聖性の中を神とともに歩む。

 

・・・・・

今日の主題概念は、罪という考えを不可能にする単純な真理を述べているにすぎない。

(1:1)

 

真理が真理に矛盾することはなく、その一部は不確かでほかの部分は確かであるということもありえない。

あなたは神なしでは存在しえないので、神から離れて世界を歩くことはできない。

神は、あなたの生命そのものである。

あなたがいるところには、神もいる。

ひとつの生命だけがある。

(2:3~7)

 

生けるものは、神と同じく神聖である。

なぜなら、神の生命を共有するものは聖性の一部であり、罪深いものではありえないからである。

(3:3)

あなたの中には、消えることなき光がある。

その存在はあまりにも神聖なので、あなたのおかげで、世界が聖別されるほどである。

生きとし生けるもの一切が、感謝と喜びのうちに贈り物を運んできては、あなたの足元に供える。

花束から漂う香りが、彼らからあなたへの贈り物である。

寄せてくる波はあなたの前で頭を垂れる。

木々はその枝を広げて暑さからあなたを守り、地面に落ち葉を敷き詰めて、あなたが歩く柔らかな道を用意する。

そして吹き降りてくる風はあなたの神聖な頭の周りで静かなささやきとなる。

(4:1~4)

 

あなたが運ぶ光は彼ら自身の光である。

そのようにして、彼らはあなたの中に彼らの聖性を見て、救済さうであり神であるあなたに挨拶する。

(5:3.4)

 

あなたが一歩退くとき、あなたの内なる光が前に進み出て、世界を包み込む。

それは処罰と死による罪の終わりを予告するのではない。

そうした罪の概念の古びた愚かしさが見えてくるので、軽やかな笑い声の中で、罪が消え去るのである。

(6:2~4)

 

それでも、あなたはこの愚かな考えに、あまりに多くの年月を浪費してきた。

過去は、そのすべての空想とともに、過ぎ去っている。

もはやそれはあなたを縛りつけてはいない。

神に近づくときが間近に迫っている。

(7:1~4)

 

「誰とともに歩むのか?」この問いが、問われなければならない。

確信が疑いを消し去り、平安を確かなものとするまで、一日に千回でも、これを問う必要がある。

今日は、疑いを終わらせなさい。

(8:1~3)

 

私は完璧な聖性の中で、神とともに歩む。

私は世界を照らし、私の心を照らし、私とひとつものもとして神が創造した心のすべてを照らす。

(8:5.6)

退きます。寝て見る夢からも物質世界という夢からも(W レッスン155)

今朝の夢は、遅刻をして必死に走っていて、なかなか思う通りに走れず、焦っていて、遅刻の言い訳を捻り出しながら走っている、というものだった。

 

ヘトヘトな状態で目が覚めた。

睡眠取ったのに、起きた時疲れてるという状態。

 

「思考」のみで作り上げた世界の中で、「思考」のみを使ってどうにかしょうとしていた、ということに、夢から覚めた瞬間気がついた。

 

そっか、ずっと思考の中なんだー、と思った。

 

必死に失敗を取り繕うために頭を使って、どうにか、遅刻という失敗を挽回するための言い訳を考えてながら、走ってた。

 

夢から覚めたとき、

「あぁ、私はいつまで、罪悪の幻想に憑りつかれているのだろう、いつまで、自分を罰してるんだろう」とぐったり、ガッカリした。

 

これまでも、こうして「思考」による幽閉した世界を作り上げて、結末は「絶望」という夢をずっと見てきたんだ。

 

そして、そんな自分を"自力"で助けよう、"自力"できりぬけよう、と無理をする。

自分を叱咤して、不確かな世界を切り抜けようと無理する罪悪の世界を信じきっていたんだ。

もう、やめよう。

やめたい。

もう、ゆるす。

 

そして、このまま自我の策略に乗っかり自分責めをするのはやめよう。

 

人を敵とみて、加害者とみて、反応するのもやめよう。

 

みんな、ひとつ。

 

降参する。

力を抜く。

取り繕って、罪悪の世界をもう強化しない。

 

聖霊に差し出そう。

聖霊に訂正してもらおう。

聖霊に導いてもらおう。

 

jacimのQ&Aで見つけた「寝てみる夢と覚めて見ている夢について」の文

 

私たちの動揺は、「自分は動揺することにする、そして、この平安の喪失を自分の外側にあるかに見える原因のせいにする」と決めた私たちの心の中の決断を反映するものであり、それ以外の何ものでもありません。

これが、私たちが目を覚ましているときの夢の中でもやっていることだという自覚が、イエスが、このコースの中で次のように私たちに提示している〈赦し〉のプロセスの土台となります。

私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。・・・私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。・・・赦しは、兄弟から自分に為されたとあなたが思っていたことは、起こってはいなかったと認識する。
( W-pI.5; W-pI.6; W-pII.1.1:1)

この認識を、眠っているときに見る夢から、目を覚ましているときの夢へと普遍化させていくことができるなら、私たちは、すべての〈分離の夢〉から目覚めるための道をしっかりと進んでいくことになるでしょう。

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ワークブック

レッスン155

 

私は一歩退いて、神に導いてもらう。

 

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存在するように見えるが実は存在していないこの世界の中で生きるための、一つの生き方がある。

あなたの外見が変わることはないが、あなたはもっとたびたび微笑むようになる。

あなたの額は穏やかで、瞳は静かである。

そして、この世界であなたと同じように歩む者たちは、自分と同じ者たちを認識する。

(1:1~4)

 

世界は幻想である。

そこにくることを選ぶ者たちは、彼ら自身が幻想となり、自分の実相を回避できる場所を求めている。

しかし、ここにも自分の実相があると発見したときには、彼らは一歩退き、その実相に導いてもらおうとする。

実際、それ以外に、彼らにどんな選択肢があるだろう。

幻想に真理を先導させるのは狂気である。

しかし、幻想を真理の後ろに退け、あるがままの真理を前面に立たせることは、単に正気であるにすぎない。

(2:1~6)

 

狂った幻想はいましばらくは形跡を残すだろう。

それは、ここにくることを選択し、まだその選択の間違いに氣づいて喜ぶまでには至っていない者たちが見るためのものである。

彼らは真理から直接学ぶことはできない。

なぜなら、彼らは、真理が真理であることを否定したからである。

だから、彼らには教師が必要である。

彼らの狂気を知覚はするが、彼らの中にある幻想は見過ごして単純な真理を見ることができる教師である。

(3:2~4)

 

すべての道は、最後にはこの道につながる。

犠牲と窮乏はどこにも達しない道である。

敗北のための選択肢、達成不可能な目的である。

こうしたすべてのことは、あなたの中で真理が前面に現れるとともに後退する。

そして真理は兄弟たちを死の道から連れ出し、幸せへの道を歩ませる。

彼らの苦しみは幻想にすぎない。

それでも彼らは幻想を真理と誤解しているので、そこから連れ出してくれる導き手を必要としている。

(7:1~5)

 

これからは、この道を安全に、しかし慎重に歩きなさい。

あなたはまだこの道では初心者だからである。

(9:1)

 

一歩退いて、真理に先導してもらいなさい。

あなたは行き先を知らない。

けれどもそれを知っている存在があなたとともに行く。

これより先は神に導いてもらいなさい。

(10:3~6)

 

私たちは神に向かって歩む。

立ち止まって、これについてよく考えてみなさい。

これ以上に神聖な道があるだろうか。

あなたの努力と愛と熱意を傾けるに値するような道が、ほかにあるだろうか。

どんな道が、一切を超えるものをあなたに与えることができるだろうか。

あるいは、それ以下のものしか差し出さずに神聖な神の子を満足させられるだろうか。

(12:1~4)

 

今、神は、毎日少しの間、あなたが神のことを思うようにとだけ求めている。

それによって、神はあなたに語りかけ、神の愛について語り、神の信頼がどれほど大きく、神の愛がどれほど無限であるかをあなたに思い出させる。

実際はひとつのものであるあなたの名と神の名において、今日、私たちは喜んで次の概念を練習する。

 

私は一歩退いて、神に導いてもらう。

私は神に至る道を歩きたいのだから。

(14:1~3)