【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【第二章 精神療法のプロセス】 Ⅳ.病のプロセス

良かれと思ったことが攻撃に取られてしまう。

 

その意味がここに書いてあった。

 

「正気」になることの促しが「自己の攻撃」と取られてしまう。

 

それは、わたしもそうだ。

 

自己のあり方を指摘されると、攻撃されたように感じる。

 

でも、それは「正気」への誘いでしかない。

 

だから、甘んじて、ただ受け入れるのみだ。

 

それに、「自己」という重荷は本当に呪縛でしかない。

 

なんでこんなに大事にしようとするのだろう。

 

判断をゆだね、「わからなさ」のままでいたい。

・・・

【第二章 精神療法のプロセス】 

 

Ⅳ.病のプロセス

 

すべての治療が精神療法であるのと同じく、すべての病は心の病である。

それは神の子への裁きであり、裁きとは心の活動である。

裁きは決断であり、被造物とその被造物に対して、何度も繰り返して為されているものである。

それは、宇宙を自分で創造したかった通りに知覚するという決断である。

それは、真理が嘘をつくことがあり、真理とは嘘に違いないとする決断である。

それならば、病とは、悲しみと罪悪感の表現以外の何であり得るだろう。

そして誰が、自らの失われた無垢性を嘆く以外に、涙を流したりするだろう。

 

ひとたび神の子が有罪だと見なされたなら、病は必然となる。

それは求められたのだから、受け取られるだろう。

そして、病を求める者はすべて、今や、助けにならない治療法を探し求めるという運命を自分に宣言したことになる。

なぜなら、彼らは救済ではなく病に信を置いているからである。

心の変化が影響を及ぼせないものは何もない。

すべての外的なものごとは、すでに為された決断の影でしかないからである。

決断を変えなさい。

そうすれば、その影は変わらずにはいられない。

病は罪悪感の影でしかあり得ず、それはいびつなものを模倣しているので、奇怪で醜悪である。

いびつなものが実在すると見なされているのなら、その影がいびつ以外の何となり得るだろう。

 

ひとたび罪悪が実在するという決断が下されたなら、そのあとは地獄への下降が一歩ずつ必然的な進路をたどることになる。

そうなると、病気と死と不幸が、あるときは一度に、またあるときは無残にも次々と、情け容赦なく怒涛のように押し寄せて地上を脅かす。

しかし、これらのものごとはすべて、どんなに実在するように見えようとも、幻想でしかない。

このことがひとたび認識されたなら、誰がそれらを信じられるだろう。

そしてこのことを認識するまでは、誰がそれらを信じずにいられるだろう。

癒しは、治療あるいは訂正であり、すでに述べた通り、そしてこれからも繰り返し述べるように、すべての治療は精神療法である。

病気の者たちを癒すとは、彼らにこの認識をもたらすことに他ならない。

 

「治療」という言葉は、この世界の比較的「品位ある」セラピストたちの間では不評を買うに至ったが、それはもっともなことである。

というのも、彼らのうち誰一人として治療をもたらすことはできず、彼らのうち誰一人として癒しを理解していないからである。

最悪の場合には、彼らは自分自身の心の中で肉体を実在のものと見なすだけであり、そうした上で、彼らの心が肉体に与える疾病の数々を癒すための魔術を探し求めるだけである。

このようなプロセスが、どうして治療をもたらすことなどできるだろう。

それは、はじめから終わりまでばかげている。

しかし、始まってしまったので、そのようにして終わらざるを得ない。

それはあたかも、神とは悪魔であって、悪の中に見出さなければならないものであるかのようである。

どうしてそこに愛があり得るだろう。

そして、どうして病気が治療をもたらせるだろう。

これらは両方とも、同一の問いではないだろうか。

 

「ヒーラー」という言葉がここで適切かどうかは疑わしいが、この世界の「ヒーラーたち」は、うまくいけば、心の病の源として認識するかもしれない。

しかし、彼らの誤りは、心が自らに治療をもたらすことができるという信念の中にある。

「誤りの度合い」というものが意味をなす世界においては、この信念には、いくらかの功績がある。

だが、彼らによる治療は一時的なものにとどまるか、あるいは、その代わりに別の病が生じることにならざると得ない。

なぜなら、愛の意味が理解されるまでは、死が克服されてはいないからである。

そしてこのことは、神からあなたへの贈り物として神により聖霊に授けられている神の言葉なくして、誰に理解できるだろう。

 

いかなる種類の病も、自己を、「弱く、傷つきやすく、邪悪で、危険にさらされていて、そのため絶えず防衛する必要があるもの」と見なした結果である、と定義することができる。

だが、もしそのようなものが実際に自己であったなら、防衛は不可能となる。

それゆえに、追求される防衛は、魔術的なものでなければならなくなる。

それらは、自己の中に知覚されるすべての限界を克服するような防衛でなければならないと同時に、古い自己が戻ってくることができないような新しい自己概念を作り出すものでなければならない。

要するに、誤りが実在するものとして受け入れられ、幻想によって対処されるということである。

真理が幻想の中に取り込まれて、実相は今や脅威となり、邪悪なものと知覚される。

実相とは愛であるから、愛が恐れられるようになる。

そのようにして、救済による「侵略」に対抗して円環が閉じられる。

 

したがって、病とは間違いであり、訂正を必要とするのものである。

そして、私たちがすでに強調したように、最初に間違いの「正しさ」を立証した上で次にそれを見過ごすというやり方では、訂正は達成できない。

もし病が実在するのなら、真にそれを見過ごすことはできない。

というのも、実在するものを見過ごすことは狂気だからである。

だが、それこそが魔術の目的である。

すなわち、偽りの知覚を通じて幻想を真実にしようとすることである。

これは、真理に反しているので、癒すことはできない。

おそらく、健康のように見える幻想で少しの間は代用されることはあるが、長くは続かない。

怖れは幻想の一部であるから、幻想によっていつまでも恐れを隠したままにしておくことはできない。

それは逃げ出てまた別の形をとることになる。

恐れがすべての幻想の源なのである。

 

病気とは狂気である。

なぜなら、すべての病気は心の病であり、そこには程度というものはないからである。

病気を実在のものと知覚される幻想の一つが、病の症状には軽度の差があるという信念である。

すなわち、脅威の度合いは病がとる形に応じて異なる、というものである。

ここに、すべての誤りの土台がある。

というのは、それらはすべて、ほんの少しの地獄を見ることによって妥協しようとする試みにすぎないからである。

これは、神にとってはあまりに異質な紛いものなので、永久にあり得ないものであり続けるしかない。

しかし、狂っている者は正気を失っているからこそ、それを信じるのである。

 

狂人は、自分が抱くいくつもの幻想の中に自分自身の救済を見ているがゆえに、それらを防衛しようとする。

それゆえに、彼は、幻想から彼を救おうとする者を、自分を攻撃してくると信じて、攻撃する。

攻撃と防衛から成るこの奇妙な周期は、サイコセラピストが対処しなければならない最も難しい問題の一つである。

実は、これこそが彼の中心的な課題であり、精神療法の核心である。

セラピストは、患者の自画像という、患者が最も大切にしている所有物を攻撃する者と見なされる。

そして、この自画像は、患者自身の知覚においては彼の安全となっているので、セラピストは、真の危険と見なされるしかない。

攻撃すべき相手や、殺すべき相手とすら見なされるのである。

 

それならば、サイコセラピストには、途方もない責任がある。

彼は、攻撃に対して、攻撃せずに、したがって防衛せずに、対応しなければならない。

彼の課題は、「防衛は不要であり、防衛しない態度が強さである」ということを手本で示すことである。

正気さは安全だというレッスンを教えるには、以下のことが、彼の教えることとならねばならない。

「狂っている者は、正気を脅威だと信じている」ということは、いくら強調してもしすぎることはない。

これが、「原罪」からの当然の結果である。

すなわち、罪悪は実在しており、充分に根拠のあるものだという信念である。

したがって、サイコセラピストの機能は、罪悪は実在していないので根拠のあるものではないと教えることである。

しかし罪悪は安全なものでもない。

それゆえに、それは実在しないものというだけでなく、望ましくないものにとどめておかれるべきものである。

 

救済のもつ単一の教義が、すべての治療のゴールである。

心がこんなにもくたびれ果てながら、背負っている狂った重荷である罪悪感を、心から取り除きなさい。

そうすれば、癒しは達成される。

肉体は癒されるのではない。

単にありのままに認識されるだけである。

正しく見られて、肉体の目的が理解できるものとなる。

そのときには、病気の必要などあるだろうか。

この単一の転換があれば、他のすべてがその後に続く。

複雑な変化の必要はない。

長期にわたる分析や、うんざりするほどの議論や探究の必要もない。

すべてのものにとって一つしかないので、真理は単純である。

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【第二章 精神療法のプロセス】 Ⅲ.サイコセラピストの役割

「目的」がこの世界の改善であれば、彷徨うばかりだった。

 

自我の欲求を消したり、動かしたり、代替えしたりと、一時的な癒しの中にいることで、自我は続いていく。

 

目的は、セラピストも患者もいない、という気づきにて成就される。

 

目的は、そこに分離がないと気づくことだから。

 

だから、セラピストは患者と関わる。

 

セラピストも患者で、患者はセラピスト。

 

ひとつだと認識するためだけに。

 

ここに癒しがあり、赦しがあり、空がある。

 

・・・

【第二章 精神療法のプロセス】 

 

Ⅲ.サイコセラピストの役割

 

サイコセラピストは先導者である。

すなわち、彼は患者よりわずかに先を歩み、道にあるいくつかの落とし穴を先に見つけることで、患者がそれらを回避できるように助けるという意味において、先導者である。

理想的には、セラピストはまた、従う者でもある。

なぜなら、セラピストが見ることができるよう光を与えるために、一なる存在が彼の前を歩いているはずだからである。

この一なる存在がいなければ、サイコセラピストも患者もただ闇雲によろめきながら歩き続け、どこにも行き着かない。

しかも、もしゴールが癒しであるのなら、この一なる存在が完全に不在ということはあり得ない。

それでも、その存在が認識されないということはあるかもしれない。

その場合は、その時点で受容されることが可能なわずかな光のみが、真理への道を照らす光のすべてとなる。

 

癒しは、患者の限界によって制限されるのと同様に、サイコセラピストの限界によっても制限される。

したがって、このプロセスの狙いは、これらの限界を超えることである。

これは、セラピストと患者のいずれもひとりではできないことだが、両者がつながり合うとき、すべての限界を超越する可能性が彼らに与えられたことになる。

そうなると、今や、彼らの成功の度合いは、彼らがこの潜在的可能性のどれくらいを使用する意欲があるかで決まることになる。

その意欲は、最初は彼らのどちらからでも生じ得るが、もう一人もそれを共有するとき、それは増大していく。

進歩は決断の問題となり、ほとんど天国に行き着くこともできれば、地獄から一歩か二歩以上は進めないということもあり得る。

 

精神療法が失敗したように見えることは大いにあり得ることである。

退行のように見える結果が現れることさえある。

しかし最後には、必ず何らかの成功がある。

ひとりは助けを求め、もうひとりはそれを聞き、助けるという形で応答しようと努める。

これが、救済のための公式であり、必ず癒しをもたらす。

分割されたゴールのみが、完璧な癒しの妨げとなり得る。

まったく自我のない一人のセラピストは、何も言わずとも、ただそこにいるだけで世界を癒すことができる。

誰も、彼を見る必要はなく、彼に話しかける必要もなく、彼が存在することさえ知る必要もない。

ただ彼の存在感だけで、癒すに充分である。

 

理想的なセラピストはキリストとひとつになっている。

しかし、癒しは過程であって、既成事実ではない。

セラピストは患者がいなければ進歩できず、患者は、キリストを受け取る準備ができてはいないはずである。

できていれば、彼が病気になるはずはなかった。

ある意味では、自我なきサイコセラピストとは、癒しのプロセスの終着地点に位置する一つの抽象概念であり、病気を信じることなどできないほどに進歩しており、自分の足を地に着けたままではいられないほどに神に近い存在である。

そこにおいて自我なきセラピストは、援助を必要としている者たちを通して助けることができる。

というのは、そのようにして彼は、救済のために確立された計画を遂行するからである。

サイコセラピストは、自我なきセラピストの患者となって、他の患者たちを通して働きながらも、自我なきセラピストがキリストの心から受け取る想念を表現する者となる。

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【第二章 精神療法のプロセス】 Ⅱ.精神療法における宗教の位置

この世界の夢から覚めたとき、「神」と直結していると思い出す。

 

わたしたちに別々の望みはなかった。

 

すべてのひとの望みは夢から覚めること。

 

その望みを共同作業で解いていく。

 

共同でないと解けない。

 

すべてのひとの望みが同じだったと知る。

 

そして、その同じへと向かうために手を取り合う。

 

やがてそれはひとつになる。

 

全体性へと目覚める。

・・・

 

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【第二章 精神療法のプロセス】

 

 Ⅱ.精神療法における宗教の位置

 

神の教師であるためには、信心深い必要はなく、それとわかるほどに神を信じていることさえ必要ない。

しかしながら、咎めではなく赦しを教えることは必要である。

この点においてさえ、完全な一貫性が要求されるわけではない。

そうした一貫性を達成した者であったなら、一瞬のうちに、無言のまま、救済を完全に教えることができる。

しかし、すべてのことを学んだ者にとって教師は必要なく、癒された者にもセラピストは必要ない。

それでも依然として、対人関係が聖霊の神殿であり、それらは時間の中で完璧なものにされ、永遠へと戻されるだろう。

 

形式的宗教は、精神療法の中に居場所をもたないが、宗教の中にも真の居場所をもたない。

この世界では、相矛盾する二つの言葉を一つにつなぎ合わせておきながらその矛盾をまったく知覚しないという、驚くべき傾向がある。

宗教を形式的なものにしようとする試みは、相容れないものを調和させようとする自我の試みであることはあまりに明白であり、ここで詳しく述べるまでもない。

宗教とは経験であり、精神療法も経験である。

その最高レベルにおいては、それらはひとつになる。

どちらも真理そのものではないが、両方とも真理に至ることができる。

今も完璧に明白であり続ける真理を見出すためには、真実なる自覚への障害のように見えるものを除去すること以外に、何が必要となり得るだろう。

 

赦すことを学ぶ者なら誰でも、神を思い出せないということはあり得ない。

したがって、赦しのみが、教える必要のあるすべてである。

なぜなら、それのみが学ぶべきすべてだからである。

神の想起を阻む障壁となるのは、赦そうとしない思いのさまざまな形であり、それ以外の何ものでもない。

このことは、患者にとっては決して明らかなことではなく、セラピストにとっても明らかであることはごく稀である。

この一つのことについての自覚に対抗して、世界はあらゆる力を結集してきた。

というのも、その中にこそ、世界の終焉と、世界に象徴されるすべてのものの終焉があるからである。

 

しかし、精神療法のゴールとするにふさわしいのは、神についての自覚ではない。

それは、精神療法が完了したときに訪れることである。

赦しがあるところには、必ず真理が訪れるからである。

精神療法の成功のために神を信じることが必要であったなら、それはまことに不公平と言わねばならない。

また、神を信じるということは、実際には意味のある概念ではない。

なぜなら、神はただ知られることができるのみだからである。

信じるということは、信じないことが可能だと示唆するものだが、神の知識に真の対極はない。

神を知らないということは、知識をもたないということであり、すべての赦そうとしない思いが行き着く先はここである。

そして、知識をもっていなければ、人はただ信念を抱くことしかできない。

 

さまざまな教材が、さまざまな人々を魅了する。

宗教のうちのいくつかの形態は神とはまったく無関係であり、精神療法のいくつかの形態は癒しとは何の関係もない。

しかし、もし生徒と教師が単一のゴールを共有することにおいてひとつにつながるなら、神が招き入れられたことになるので、その関係の中に神は入ってくる。

同様に、患者とセラピストの目的の融合により、まずがキリストの心眼を通して、次に神ご自身についての記憶を通して、神が優位に戻される。

精神療法のプロセスとは正気への帰還である。

教師と生徒も、セラピストと患者も、みな正気を失っている。

そうでなければ、彼らがこの世界に居るはずはない。

一緒になれば、彼らは世界から脱出する道を見つけることができる。

誰も自分ひとりで正気を見出すことはないからである。

 

もし癒しが、神を神の国へ招き入れる招待であるのなら、その招待状がどのようにして書かれるかが、問題になるだろうか。

それに使われた紙や、インクや、ペンが、重要だろうか。

また、招待状を出すのは、それを書く者だろうか。

神は、ご自身の世界を復元しようとする者たちのところへやってくる。

彼らは神に呼びかける方法を見つけたからである。

誰にであれ二人の者がひとつにつながれば、神は必ずそこにいる。

彼らの目的が何であるかは重要ではないが。成功するためには彼らはその目的を全的に共有しなければならない。

キリストに祝福されていないゴールを共有することは不可能である。

というのは、キリストの目に見えないものは、あまりに断片化され、意味を失っているからである。

 

真の宗教は癒しをもたらすものであるから、真の精神療法も宗教的とならざるを得ない。

しかし、どちらにも多くの形態がある。

なぜなら、良き教師は、あらゆる生徒に同一の教え方をすることはないからである。

それどころか、そのような教師は一人ひとりの生徒に根気強く耳を傾け、彼に彼自身のカリキュラムを構築させる。

ただし、カリキュラムのゴールを彼に決めさせるのではなく、カリキュラムが彼に設定したゴールに達するための最良の方法を決めさせるのである。

おそらく、そうした教師は、神を教育の一部とは考えていない。

そしてそうしたサイコセラピストも、癒しは神からくると理解してはいないことだろう。

彼らこそ、神を見出したと信じている多くの者たちが失敗するところで、成功することができる。

 

学びを確実にするために、教師は何をしなければならないのだろうか。

癒しをもたらすために、セラピストは何をしなければならないのだろうか。

それは、ただ一つのことだけである。

すなわち、救済がすべての者に求めているのと同じ条件である。

各人がひとつのゴールを誰か他の者と共有し、そうすることにより、別々の利害という感覚のすべてが無くならなければならない。

これを行うことによってのみ、教師と生徒も、セラピストと患者も、あなたと私も、贖罪を受け入れ、受け取られた通りにそれを与えることを学ぶことができる。

 

聖餐は一人では不可能である。

孤立している者は誰も、キリストの心眼を受け取ることはできない。

それは彼に差し出されているが、彼のほうでそれを受け取るために手を差し出すことができない。

彼を静かにさせ、彼の兄弟の必要は彼自身の必要と同じであると認識させなさい。

それから、彼に兄弟と自分の必要を満たさせ、それらがひとつのものとして満たされるということを理解させなさい。

なぜなら、それらは確かにひとつのものだからである。

宗教とは、これが事実であると彼がわかるように助けるための援助以外の何だろうか。

そして、精神療法とは、まさにこれと同じ方向の助け以外の何だろうか。

これらのプロセスを同じものにするのはそのゴールである。

なぜなら、両者はその目的においてひとつであり、したがって、手段においてもひとつでならなければならないからである。

 

 

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【第二章 精神療法のプロセス】序 Ⅰ.精神療法のプロセス

「抵抗」。

 

20年間のセラピスト人生の中で、「抵抗」と、格闘してきた。

 

”「抵抗」とは、ものごとについての自我による見方のことであり、進歩と成長についての自我による解釈のことである。”

 

対人にて、「真理」に抵抗している人の「抵抗」に悪戦苦闘してきたと思っていたけど、やはり、抵抗していたのは、わたしの方だった。

 

ただ開かれたままでいることに「抵抗」していたのだ。

 

開かれたままでいることにゆだねるだけなのだ。

 

閉じられていることに傷ついて、閉じられているものに近づこうとしなかったけど、そのこと自体が自我の働き。

 

傷つき得ないものなのだから。

 

そして、相変わらず、傷つく世界は傷つき続ける。

 

そこに巻き込まれて行くことなく、それに関わるのではなく、「そうなのだ」と見抜くだけ。

 

聖霊は忍耐強い。聖霊は待つ。」

 

なぜなら、それはすでに、成就しているから。

 

最初から、居ない場所に、居ようとしないでいい。

 

愛は只そこにある。

 

愛のまま在る。

 

だから愛のままで。

 

・・・

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【第二章 精神療法のプロセス】 序

 

精神療法は自己に関する見解を変えるプロセスである。

うまくいけばこの「新しい」自己は以前より善良な自己概念となるが、実相の確立を精神療法に期待することはとうていできない。

それは精神療法の機能ではない。

実相につながる道を開くことができれば、精神療法は究極の成功を達成したことになる。

精神療法の機能全体が、最終的には、患者が一つの根本的誤りに対処できるように助けることにある。

その誤りとは、「怒りは、自分が真に望むものをもたらしてくれるものであり、攻撃を正当化することにより、自分が保護される」という信念である。

これが誤りだということを彼が認識するその度合いに応じて、彼は真に救われる。

 

患者はこのようなゴールを念頭において精神療法を受け始めるわけではない。

それどころか、そうした概念は、彼らにとってはほどんど意味がない。

意味があったなら、もとより彼らに助けは必要なかったはずである。

彼らが目指しているのは、自分の自己概念は厳密にそのまま維持しつつも、その概念に伴う苦しみは被らずにいられるようになることである。

それが可能だという狂気の信念の上に、彼らの精神的安定のすべてが依拠している。

そして、それは正気な心にとっては明らかに不可能なことであるから、彼らが求めているのは魔術である。

幻想の中では、不可能なことでもたやすく達成されるが、それは幻想を真実とするという代償を払った上でのみ可能なことである。

患者は、すでにこの代価を払っている。

その上で今度は「よりよい」幻想を望んでいるのである。

 

したがって、最初は、患者のゴールとセラピストのそれは食い違っている。

患者と同様にセラピストも、虚偽の自己概念を大切にしているかもしれないが、それでも、「向上」についての双方の知覚はそれぞれに異なっているはずである。

患者が学びたいと望んでいるのは、意義あるところまで自分の自己概念を変えることはせずに、自分の望む変化だけを手に入れる方法である。

実のところ彼は、自分が精神療法の中に求めている魔術的な力を、自分の自己概念の中に含めることができるところまで、その概念を充分に安定させることを望んでいる。

彼は、傷つきやすいものを傷つき得ないものとし、限りあるものを限りなきものにしようとしている。

彼が見ている自己が彼の神であり、その神にさらによく仕えることのみを、彼は求めているのである。

 

セラピストは、彼自身がどれくらい真摯であるかには関わりなく、自らが確かなものだと信じている何らかの形に、患者の自己概念を変化させたいと望むものである。

治療の課題は、これらの相違に折り合いをつけることである。

できるなら、両者とも各自がはじめにもっていたゴールを放棄することを学ぶのが望ましい。

というのも、救済が見出されるのは、対人関係の中においてのみだからである。

最初のうちは、患者もセラピストも共に、魔術的な意味合いが皆無ではない非現実的なゴールを受け入れることは避けられない。

最終的には、それらのゴールは、両者の心の中で放棄される。

 

Ⅰ.精神療法の限界

 

しかし、そのような理想的な成果が達成されることは稀である。

治療は、癒しとは心の癒しのことだという認識で始まるものであり、精神療法においては、すでにこのことを信じている者同士が対座している。

彼らがそれ以上はあまり前進しないということもあるだろう。

誰でも、自分に準備ができているところまでしか学ばないからである。

しかし準備のレベルは変化するものであり、セラピストか患者のどちらかが次のレベルに達したときには、変わりつつある必要に見合った関係が、彼らの前に差し出されるだろう。

彼らは再び出会って互いとの関係の中で進歩し、それを神聖なものにしていくかもしれない。

あるいはまた、各々が別の約束関係の中に入っていくことになるかもしれない。

確信してよいことは、どちらも進歩するということである。後退は一時的なものである。

全般的な針路は、真理に向かっている。

 

精神療法そのものは、創造的ではあり得ない。

こうしたことは、自我が助長する誤りの一つである。

すなわち、精神療法には真の変化をもたらす力があり、それゆえに、真の創造性を発揮する力もあるとする誤りである。

私たちが「救いをもたらす幻想」や「最後の夢」について語るとき、私たちが意味しているのはこのことではないが、ここには自我の最後の防衛がある。

「抵抗」とは、ものごとについての自我による見方のことであり、進歩と成長についての自我による解釈のことである。

これらの解釈は必然的に間違うことになる。

なぜなら、それらは妄想的なものだからである。

自我がもたらそうとしている変化は、実際には変化ではない。それらは単に、影が濃くなったり、雲の模様が変わったりするだけのものである。

だが、虚無で作られているものを、新しいとか異なるなどと呼ぶことはできない。

幻想はあくまでも幻想であり、真理はあくまでも真理である。

 

ここで定義されているような抵抗は、患者だけでなくセラピストにも見られることがある。

いずれにしても、それは精神療法の目標を制限するので、精神療法に限界を設けることになる。

また、聖霊が、治療のプロセスへの自我による侵入に対抗して戦うことはできない。

しかし、聖霊は待つ。

そして、聖霊の忍耐は無限である。

聖霊のゴールは、常に、まったく分割されていない。

患者とセラピストが各自の異なるゴールに関連してどのような解決に達するにしても、彼らは、聖霊のゴールにつながるまでは、ひとつのものとして完全に和解することはできない。

聖霊のゴールにつながったときのみ、すべての葛藤が過ぎ去る。

そのときにのみ確かさが存在し得るからである。

 

理想的に言えば、精神療法とは一連の神聖な出会いであり、その中で、兄弟は互いを祝福し神の平安を受け取るために対面する。

そしてこれは、地上に居る「患者」のすべてに、いつの日か起こることである。

そもそも患者以外の誰が、ここに来ることなどできただろう。

セラピストとは、いくらか専門的に神の教師として働く者にすぎない。

彼は教えることを通じて学び、進歩すればするほど、より多くを教え、より多くを学ぶ。

しかし、彼がどの段階に居ようとも、ちょうどその段階に居る彼を必要とする患者たちがいる。

彼らは、今のところ彼が与えることができる以上のものと受け取ることはできない。

それでも、双方が最後には正気を見出すことになる。

 

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【序文】【第一章 精神療法の目的】

本当には実在していないものを実在していると思い込んでいる。

その訂正。

 

実在していないものを実在していると思い込んでいるのは、わたしたち。

だれもそれを作っていない。

 

自分が作ったものを自分で作ったと認めることで、それは取り消される。

 

それが自分の人生を自分で引き受けるということ。

 

そして、真の自分の人生とは聖霊そのものだということ。

 

・・・

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 

 

【序文】

 

精神療法は、存在する唯一の治療の形態である。

心のみが病むことができるので、心のみが癒され得る。

心のみが癒しを必要としているのである。

そのようには見えないが、その理由は、この世界に顕現されている事象が本当に実在するように見えているからである。

それらの実在性を個人が疑問視できるようになるために、精神療法が必要である。

ときには、個人が専門家からの助けを借りずに自分の心を開き始められる場合がある。

しかし、そのようなときでさえ、彼にそれを可能にさせるのは、常に、他者との関わりについての彼自身の知覚における何らかの変化である。

ときには、彼は「公認の」セラピストとの間で、より体系的で長期にわたる関わりを必要とすることもある。

いずれの場合も、課題は同じである。

患者は、幻想の「実在性」について自分の心を変えるために、助けてもらうことが必要なのである。

 

【第一章 精神療法の目的】

 

端的に言って、精神療法の目的は、真理を妨げている障壁を除去することである。

その狙いは、患者を助けて、彼が自分の凝り固まった妄想的体系を手放し、その土台となっている疑似の因果関係について再考し始めるように仕向けることである。

この世界では、誰も恐れから逃れられないが、誰でも恐れの原因を再考し、それらを正しく見極めることはできる。

神はすべての者に教師を授けており、この教師の叡智と援助は、地上のセラピストが提供できるいかなる貢献もはるかの凌ぐものである。

それでも、時と場合によっては、地上の患者とセラピストとの関わりが手段となって、この教師がより大きな贈り物を患者とセラピストの両方に授けることもある。

 

対人関係がもち得る目的として、聖霊を招き入れて聖霊自身の偉大な贈り物である歓喜を与えてもらうこと以上に、良い目的があるだろうか。

誰にとっても、神に呼びかけて神の答えを聞くことを学ぶこと以上に高邁なゴールがあり得るだろうか。

そして、道と真理と生命を想起し、神を思い出すこと以上に超越的な目的が、あり得るだろうか。

こうしたことについて助けるのが、精神療法の正当な目的である。

これ以上に神聖なものがあるだろうか。

というのも、精神療法とは、正しく理解されたなら、赦しを教えるものであり、患者が赦しを受け入れられるように助けるものだからである。

そして、患者が癒されるとき。セラピストも患者と共に赦される。

 

どのような形で苦しんでいるかには関わりなく、助けを必要としている者はみな、自分自身を攻撃しているのであり、その結果、彼の心の平安は損なわれている。

こうした傾向は、しばしば、「自己破壊的」と表現され、多くの場合、患者自身もそれらをそのように見なしている。

患者が理解しておらず、学ぶ必要があるのは、攻撃したりされたりできるこの「自己」とは、患者自身が作り上げた概念だということである。

しかも、彼はそれを大切にし、防衛し、ときには、その「自己」のためには、自らの「生命」を「犠牲」にすることさえ厭わない。

彼はこの「自己」を自分自身と見なしているからである。

この自己を彼は、為されたことの影響を被るもの、外的な勢力から要求されるままに反応するもの、そして、世界の力の最中になって、非力なものと見ている。

 

ということであれば、精神療法とは患者に自分で決断する能力についての自覚を取り戻させるものでなければならない。

彼に必要なのは、自分の思考を逆転させてもよいという気持ちをもつことであり、さらには、自分に結果を投影してきたと思っていたものが実は自分による世界への投影で作り出されていたということを、理解しようとする意欲をもつことである。

彼の見ている世界はそれゆえに存在していない。

このことが、少なくとも部分的にでも受け入れられるまでは、患者は自分自身を真に決断能力のある者と見なすことができない。

そして彼は自分の自由に対抗して戦うことになる。

なぜなら、彼は自由とは隷属だと考えるからである。

 

患者は、救済において進歩するために、真理とは神であると考える必要はない。

しかし彼は真理を幻想から弁別することを始めなければならない。

両者は同じではないと認識し、幻想を偽りと見なし、真理を真実であるとして受け入れる意欲を徐々に増していかねばならない。

そこから先は、彼の教師である聖霊が彼を引き受け、彼に準備ができているところまで連れていく。

精神療法は、単に、彼の時間を省くことができるだけである。

聖霊は自らが最善と見なすやり方で時間を用い、決して間違うことはない。

聖霊の監督下で行われる精神療法は、聖霊が用いる手段の一つであり、それは時間を省き、聖霊の仕事のためにより多くの教師たちに準備させるためのものである。

聖霊が選ぶ行路であればいずれによっても、すべての精神療法が最後は神に至る。

しかしそうしたことは神に任されている。

神はご自身の中で私たち全員が癒されることを望むので、私たち全員が、神のサイコセラピストたちである。

 

エピローグ

あんなに焦燥感に駆られていたのはなんだったんだろう。

 

この世界の何かに急き立てられることはもうない。

 

あっても、その瞬間に、「空」にゆずる。

 

そして「空」を祝福する。

 

それ以外にはなにもない。

・・・

エピローグ

 

ひとたびこの旅が始まればその終わりは確実だということを、忘れてはならない。

途中で疑いが何度も去来するだろう。

それでも旅が終わることは確かである。

神から任せられたことを成し遂げられない者はいない。

このことを忘れたときには、あなたは神の言葉を胸に抱いて神と共に歩んでいるということを思い出しなさい。

これほどの希望が自分のものだというときに、絶望できる者などいるだろうか。

絶望のように見える幻想の数々が訪れるかに見えるかもしれない。

しかし、どのようにすればそれらに欺かれずにいられるかを学びなさい。

どの絶望の背後にも実相があり、神が居る。

神の愛が道の一瞬先にあり、そこですべての幻想が終わるというときに、なぜあなたは実相を待ち続け、それを幻想と交換してしまおうとするのだろうか。

終わりはまさしく確実であり、神に保証されている。

ほんの一歩先で、至聖なる存在が、世界の向こう側へと続く往古の扉を開こうというときに、いったい誰が生命なき偶像の前に佇んでいたりするだろう。

 

ここでは、あなたは紛れもなく異邦人である。

しかしあなたは神に属しており、神はご自身を愛するようにあなたを愛している。

石をわきへ転がすのを助けて欲しいと私に頼みさえすれば、神の意志にしたがって、それは為される。

私たちはすでにその旅を始めている。

遠い昔に、その終わりのことは星々に記され、天空に刻まれ、きらめくひとすじの光線が、すべての時間をも貫いて永遠の中にそれを安全に保ってきた。

そしてそれは今もそのように保たれており、不変のまま、変わることなく、変わり得ないものであり続けている。

 

怖れてはならない。

私たちは、新たな旅のように見えるが遠い昔に始まった往古の旅に、もう一度出かけるだけである。

以前に旅をして少しの間だけ迷った道を、私たちは再び歩み始めた。

そして今、もう一度試みる。

私たちの新たな旅立ちには、これまでの旅に欠けていた確信がある。

仰ぎ見て、星々の間に神の言葉を見つけなさい。

神はそこに、ご自身の名と共にあなたの名を配した。

仰ぎ見なさい。

そして、世界は隠そうとするが神はあなたに見せようとするあなたの確かな運命を、見出しなさい。

 

私たちはここで静かに待とう。

そして、私たちに呼びかけ、ご自身の呼びかけを私たちが聞くことができるように助けてくれた神に感謝して、一瞬の間、跪こう。

そしてそれから立ち上がり、信を抱いて神への道を歩んでいこう。

今では、私たちはひとりで歩むのではないと確信している。

神はここに居る。

そして神と共に、すべての兄弟もここに居る。

私たちはもはや二度と再び道に迷うことはないと知っている。

再び歌が始まる。

その歌は、悠久の昔から一度もうたわれたことがないかに思えるが、ほんの一瞬途切れていただけである。

ここで始まったものはその生命と力と希望を増していき、ついに、世界は一瞬の間静まり、罪の夢が紡ぎ出したすべてを忘れるだろう。

 

新たに生まれた世界を出迎えにいこう。

そこではキリストが再生しており、この再生の聖性は永遠に続くことを、私たちは知っている。

私たちは道を見失っていたが、彼はそれを見つけてくれた。

彼を歓迎しにいこう。

彼は、救済を祝うために、そして私たちが作り出したと思っていたすべてのものの終わりを祝うために、私たちのもとに戻ってくる。

この新しき日に、明けの明星はそれまでとは違った世界を照らす。

そこでは、神が歓迎され、その傍らの神の子も歓迎されている。

神を完成させる私たちは神に感謝を捧げ、神も私たちに感謝する。

神の子は静かになり、神から与えられたその静けさの中でわが家に戻り、ついに平安に包まれる。

用語の解説 6.聖霊

答えがないことに対しては答えない。

 

それだけなのだなぁと。

 

答えがないことに対して答えようとしない。

 

答えられないし、その必要もない。

 

それよりも、愛でよう。

 

愛でることだけが自然なことだ。

 

・・・

用語の解説 6.聖霊

 

エス聖霊の顕現である。

彼は天に昇った後、すなわち、神に創造されたままの神の子キリストと完全に同一化した後に、聖霊を地上に呼び降ろした。

聖霊は一なる創造主による被造物であり、神と同質のものとして、つまり霊として神と共に創造しているので、永遠なるものであり、変化したことは一度もない。

聖霊が「地上へ呼び降ろされた」というのは、今では聖霊を受け入れてその声を聞くことが可能になったという意味においてである。

聖霊の声は神に代わって語る声であるから、形態をもつものとなったということである。

この形態は、神および神の一部である真の神の子キリストだけが知っている聖霊の実相ではない。

 

このコースで描写されている聖霊は、私たちに分離に対する答えを与え、贖罪の計画をもたらし、そこにおける私たちの具体的な役割を定め、それがまさに何であるのかを示してくれる存在である。

聖霊はイエスをその計画を実行する先導者と定めたが、それは、イエスが自らの役割を完璧に果たした最初の者だったからである。

それゆえに、天においても地においても一切の力がイエスに与えられているのであり、彼はあなたが自分の役割を果たしたとき、その力をあなたと共有するだろう。

贖罪の原理は、イエスがそれを始動させるずっと以前に聖霊に与えられていたものである。

 

聖霊は、分離した神の子らと神との間に残っている親交の絆であると描写されている。

この特別な機能を果たすために、聖霊は二重の機能を担ってきた。

神の一部であるがゆえに、聖霊は知っている。

そしてまた、人類を救うために遣わされたがゆえに、聖霊は知覚している。

聖霊は大いなる訂正の原理であり、真の知覚をもたらすもの、キリストの心眼に内在する力である。

聖霊は光であり、その光の中では赦された世界が知覚され、キリストの顔だけが見られる。

聖霊は決して創造主やその被造物を忘れない。

神の子を忘れることもない。

あなたを忘れることもない。

それは聖霊は、神がそこに置いたがゆえに決して消されることのない永遠の輝きの中で、父の愛をあなたのもとへと運ぶ。

 

聖霊はあなたの心の中のキリストの心の部分に宿っている。

聖霊は、あなたの自己とあなたの創造主を表象しており、両者は一なるものである。

聖霊は両者とつながっているので、神を代弁すると共に、あなたをも代弁する。

したがって、両者が一なるものであることを証明するのは聖霊である。

聖霊が声であるかのように思えるのは、そのような形で神の言葉をあなたに語るからである。

遠い国を旅するための導き手のように見えるのは、あなたがそのような形の助けを必要としているからである。

聖霊は、あなたが自分に必要だと思っていることを満たすどんなものでもあるように見える。

しかしあなたが自分自身を、本当は不要なものと必要と思い込む罠に陥った者として知覚するとき、聖霊はそれには騙されない。

こうしたものから、聖霊はあなたを解放しょうとする。

こうしたものから、あなたを安全に守ろうとする。

 

あなたはこの世界における聖霊の顕現である。

あなたの兄が、自分と一緒に聖霊の声になるようにと、あなたに呼びかけている。

彼はひとりだけでは機能がないので、ひとりでは神の子の助け主にはなれない。

しかしあなたとひとつにつながったなら、世界の輝かしい救済者となり、世界の救いにおける彼の役割をあなたが完成させたことになる。

聖霊はあなたにも彼にも同じように感謝する。

なぜなら、彼が世界を救い始めたとき、あなたも彼と共に立ち上がったからである。

そして時間が終わるとき、あなたは彼と共に居るだろう。

そのとき、か細い死の旋律に合わせて踊るあなたについての悪意の夢は、跡形も無く消え去っている。

その旋律の代わりに、少しの間、神への賛美歌が聞こえる。

そしてその後、声は消えてしまう。

もはや形に表れることはなく、神の永遠なる無形性へと戻っていく。