愛には限界がなく、至るところに存在する。
だから喜びも、あらゆるところに偏在する。
しかし、心は愛の偏在を否定することもできる。
愛の中に罪が入り込める隙間があって、そこに喜びのかわりに苦痛がもたらされると信じるのである。
この奇妙な信念は、愛を限られたものとして定義し直し、限界も対極もないものの中に対立を持ち込んで、幸福を限定しようとする。
(レッスン103 1:4~7)
神は愛なのだから、幸福でもある。
神を恐れることは、喜びを恐れることである。
(2:4.5)
神は恐れであるという誤った信念を訂正する。
(2:6)
神の贈り物が置かれるべき聖なる祭壇の上に自分で置いてしまった、無意味な自作の贈り物をすべて、取り除こうとする。
(レッスン104 2:1)
神からの贈り物に時間はないので、それらは今も私たちの中に存在する。
だから私たちは、それらを手に入れるために待つ必要はない。
それらは、今日、私たちのものである。
(2:4)
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マヒしていたんだなぁと氣がつく。
ありとあらゆることが喜びでしかなかった。
それをわけることはできない。
好きとか嫌いとか、生理的に無理とか、思考的に受け入れられないとか、
否定することによって、分け、分離を強化して、喜びを限定していたのだ。
ただそれを「喜び」と認める。
近づく必要も、遠ざける必要もない。
足すことも、引くこともしなくていい。
喜びは「在る」のだから。
ただ心をオープンにして、ダイレクトに、無条件に、純粋に、その喜びの中に浸るだけでいい。
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復習
レッスン117
(103)神は愛なのだから、幸福でもある。
(104)私は真に私に属するものだけを求める。
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怒りは事実からではなく解釈から生じるというなら、怒りは決して正当化できない。
たとえぼんやりとでもこのことが把握されたなら、道は開かれる。
今や、次の一歩を踏み出すことが可能になる。
ついに解釈を変えることができる。
魔術的想念は、咎められる必要はない。
なぜなら、それらには実際に罪悪を生じさせる力はないからである。
それゆえに、それらは看過され得るものであり、真の意味で忘れることのできるものである。(マニュアル 17 8:6~11)
狂気は、恐ろしく見えるだけである。
真理においては、それには何を作り出す力もない。
その僕(しもべ)となる魔術と同様、それは攻撃することも保護することもしない。
それを見てその思考体系を認識するということは、無を見ることである。
無が怒りを喚起できるだろうか。
(マニュアル 17 9:1~5)
「祈りとは、脇に退くことであり、手放すことである。また、耳を澄まして愛するための静かな時間のことでもある。それは、いかなる種類の懇願とも混同されるべきものではない。なぜなら、祈りとはあなたが自分の聖性を思い出すための道だからである。」
(マニュアル 付録Ⅱ 第一章Ⅰ 5:1.2)