先日の話。
せっかく楽しい計画を友人と約束して、前日までわくわくして、準備をしていたのに、なぜかなぜだか、「本当にこれでいいのか?」と心の奥がざわついてきた。
計画していた時は、無邪気で軽かったし、行動自体には何の意味もないのだし、友人との一期一会を楽しもうって思って、あまり深く考えなくていいだろうって、計画をすすめた。
でも、前の晩、どうしても心のざわつきがおさまらなくなった。
心の向きが「全体」への喜びに佇むよりも、まだこの世界の分離的な喜びで埋めようとしているのではないか?と感じた。
喜びをすり替え、この世界に慰めてもらおうとしていると感じた。
もしそれだったら、この計画は必要ないんじゃないか?と感じた。
なので、友人の返事にゆだねたら、計画は取りやめになった。
私の自我の部分は大いにガッカリしたし、友人を振り回してしまった罪悪感が湧いてきた。
でも、深い部分ではホっとしていた。
静けさの中に落ちていった。
そして、今度は、友人とギクシャクしてしまっている。
その友人に申し訳なさと、でも、この微妙な感覚をわかち合いたかったけど、それが出来ずに、気持ちがすれ違っていることにいら立ちもある。
だけど、もう、わたしには「わからない」。
これ以上、個人の保身に費やしたくない。
全部を全体にゆだねる。
・・・
「わからない」けど、でもこれでいいというか、表面で起きていることがなんであっても、「ゆるされている」ことだけは確かだと感じている。
私は、この世界で、いっぱい間違ってきた。
正しく生きなければならないって思い込んできたからこそ、間違ってばかりの自分の挽回に身を費やしてきた。
でも、そうすればするほど、自分と人の間違いを裁き、心穏やかではなかった。
「コース」では、その罪悪の意識が夢なんだと諭してくれる。
だけど、それを受け入れるどころか、まだ、自分で自分や人を「判断」して、「ゆるし」すら、自分でコントロールしょうとしていたのだった。
そうではない。
もう「ゆるされている」。
その「ゆるされている」源泉に身をゆだねるだけだった。
本当に、ただ身を任せるだけだった。
・・・
ワークブック
レッスン297
赦しだけが、私が与える贈り物である。
・・・・・
赦しは、私が与える唯一の贈り物である。
なぜなら、それが私が望む唯一の贈り物だからである。
そして私が与えるものはすべて、自分自身に与えられる。
これが救済の簡単な公式である。
だから、救われたいと願う私は、赦しを自分のものにしたい。
赦しを必要としている世界の中で、救済を私の生きるも道とし、私が自分に贖罪を受け入れるとき、世界は救われるだろう。
父よ、あなたの方法は何と確かなことでしょう。
その結末は何と確実なものでしょう。
私の救済における一歩一歩は、すでに、このうえなく正確に定められ、あなたの恩寵により達成されています。
あなたが与えてくださった永遠なる贈り物と私のアイデンティティーについて、感謝を捧げます。
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