ワークブックの4巡目が先日終わり、ようやく、今度は「マニュアル」を、ここで記していきたいという気持ちになれた。
ワークブックの4巡目の終わりごろ(レッスン200あたりから)、まだわずかにだけど「真理」を疑っていた、その感覚が消えた。
そして、同時に「真理」への憤りも消えた。
「時間と空間」への焦りも失せていった。
与えられている「時間と空間」は、「真理」に使おう。
この世界の時間軸に踊らされなくていいという解放感と安堵感、自由な感覚。
この与えられている祝福の時間を大いに祝福に使う。
この世界が、訴えてきてるように、煽っているように感じていた概念や言葉も素通りして、その奥にある光と愛に満ちていこう。
「共有」の財産である「愛」だけをわかち合う。
それ以外は必要ないこと。
これからも、それでも二重に見えるときがあるこの世界においては、心静かにいて、すべてのひとと、「愛」だけを共有したい。
あなたは他の誰かに与えるということはできず、自分自身に与えることができるだけである。
そしてこのことを、あなたは教えることを通して学ぶのである。
・・・
「序文」
教えることと学ぶことの役割は、この世界の思考では、実際に逆になっている。
この逆転は特徴的なものである。
あたかも、教える者と学ぶ者が分離しており、教える者が、自分自身にではなく学ぶ者に、何かを与えているかに見える。
さらには、教えるという行為は、人が自分の時間のうち比較的わずかな間だけ携わる特別な活動であると見なされている。
一方、このコースは、教えるはすなわち学ぶことであるから、教える者と学ぶ者は同じであると強調する。
また、教えるといことは不断のプロセスであり、一日中あらゆる瞬間に行われており、睡眠中の想念の中でも続いているということも、同じく強調されている。
教えるとは、手本を示すことである。
存在するのは二つの思考体系だけであり、あなたはいつでも、自分がそのどちらか一方を信じているということを、手本として示している。
あなたが示す手本から他の者が学び、同じくあなたも学ぶことになる。
問題は、あなたが教えるかどうかではない。
それについては選択の余地がない。
このコースの目的は、あなたが何を学びたいかに基づいて何を教えたいかを選択できるように、そのための手段を提供することにあるとも言える。
あなたは他の誰かに与えるということはできず、自分自身に与えることができるだけである。
そしてこのことを、あなたは教えることを通して学ぶのである。
教えるとは、あなたが何を信じているかを証するようにと、証人たちに呼びかけることに他ならない。
それは回心の方法である。
これは言葉だけによって為されるものではない。
どんな状況も必ず、自分とは何であるか、そして他者とはあなたにとって何であるかを、あなたが他者に教える機会となる。
それ以上のものではない。
しかしそれ以下でもない。
したがって、あなたが設定するカリキュラムは、自分をいかなるものと考えているか、および、他者との関わりを自分にとっていかなるものと信じているか、ということのみにより決定される。
正式に教える状況のおいては、こうした問いは、自分が教えていると思っている事柄とはまったく無関係かもしれない。
しかし、いかなる状況に含まれる内容であれ、あなたが真に教えるもののため、すなわち真に学ぶもののために使われないということはあり得ない。
これには、あなたが教える事柄がどのような言葉で述べられているかはまったく問題にならない。
それが教えと一致する場合もあれば、一致しない場合もある。
あなたが語ることの根底にある教えが、あなた自身に教えるのである。
教えるということは、自分自身について自分が信じていることを強化するだけである。
その根本的な目的は、自己不信を減ずることにある。
これは、あなたが守ろうとしている自己が実在するという意味ではない。
しかし、実在すると自分で思っている自己をあなたは教えるということは、確かに意味している。
これは避けられないことである。
このことから逃れる道はない。
それ以外のことがあり得るだろうか。
この世界のカリキュラムに従っている者は誰でも、自分が自分の本性とは違ったものであると、ひたすら自分自身に確信させるためにのみ教えており、そして、ここに居る者は誰でも、自分で自分の心を変えるまでは必ずそのカリキュラムに従うものである。
そうすることの中に、世界の目的がある。
それならば、それ以外の何が、世界のカリキュラムであり得るだろう。
絶望と死の他には何も教えず、希望もなく、閉ざされたこの学びの状況に、神は教師たちを送り込む。
そして彼らが喜びと希望という神のレッスンを教えている間に、彼ら自身の学びがついに完了する。
神の教師たちがいなければ、救済の望みはほとんどなくなるだろう。
なぜなら、罪の世界が永遠に実在するように見えることになるからである。
自らを欺いている者は欺くことしかできない。
彼らは欺瞞を教えざるを得ないからである。
これ以外の何が地獄だというのだろう。
本書は神の教師たちのためのマニュアルである。
彼らは完全無欠ではない。
そうであったなら、彼らがここに居るはずはない。
しかし、ここで完全無欠になることが彼らの使命である。
それゆえに、彼らは完全無欠性を習得するまで、実に多くのやり方で、何度でも繰り返して、それを教える。
そうしてその後、もはや彼らの姿は見られなくなる。
それでも、彼らの想念は、永遠の強さと真理の源であり続ける。
彼らとは誰のことか。
どのようにして選ばれるのか。
彼らは何をするのか。
どのようにして彼らは、自分自身の救済と世界の救済を実現するのか。
このマニュアルは、こうした質問に答えようとするものである。
(全文)